私たちは今、森山良子の〈想い〉にあの頃のように“共感”を覚えるのである!
1960年代初頭、フォークは最先端の音楽だった。アメリカで誕生したコンテンポラリーフォークから生まれたヒット曲、キングストン・トリオの「トム・ドゥーリー」、ブラザース・フォアの「グリーンフィールズ」、ピーター、ポール&マリー(PPM)の「パフ」などが、他のアメリカンポップスに交じって日本に流れ込んできた。
アコースティックギターの新鮮さ、美しくさわやかなハーモニーに、たくさんの大学生が衝撃を受け、われ先にとグループを結成してコピーを始めた。それが60年から61年のこと。
そのうち関東の大学にいくつかのグループが誕生し、ダンスパーティーなどに呼ばれて人気者になっていった。マイク真木のモダン・フォーク・カルテット、黒澤久雄のザ・ブロードサイド・フォー、小室等のPPMフォロワーズなどだ。彼らは一様に白いソックスにアイビーカットでキングストン・トリオやブラザース・フォア、PPMのコピーをしていた。
その頃、森山良子は成城学園中学2年のときに友人と作ったナッシュビル・ローファーズというウエスタン・バンドでボーカルを担当していた。成城学園の先輩だった黒澤久雄は学園祭で彼女の歌をたまたま聴き、美しいクリスタル・ボイスが気に入った。そのときから、彼女にフォーク・ソングを歌わせたら面白いと思うようになった。
「このレコードを貸すから、この中の「ドナ・ドナ」という曲を覚えておくように」
黒澤久雄と森山良子の出会いはこういう会話で始まった。まことにぶっきらぼうな言い方だが、彼女は緊張のしっぱなしだった。黒澤は映画監督・黒澤明の息子ということで有名なうえに、成城学園ではフォーク・グループを作って学園祭などで活躍していたので、彼女たち後輩の女生徒にとっては“憧れの人”だったからだ。黒澤から借りたジョーン・バエズのレコードを聴いて、初めてフォーク・ソングを知った彼女は、ジョーン・バエズの澄み切った、それでいてもの悲しさをたたえたボーカルに大きなショックを受けた。こうして彼女はフォーク・ソングに出会った。
「とにかく歌手として傑出していました」――そう評価したフィリップス・レコードの本城和治ディレクターは彼女をスカウトし、彼女は1967年1月25日に「この広い野原いっぱい」でデビューした。
彼女は「この広い野原いっぱい」でデビューするや、この曲がヒットして〈フォークの女王〉と呼ばれるようになった。しかし、「フォークがあまり好きではなかった」という。
当時、フォークはアメリカで生まれた民衆の歌で生活に根ざしたメッセージソングだった。洋楽もジャズもクラシックもノンジャンルで歌いたいと思っていた彼女は、“フォーク”という枠にはめられるのが嫌だったのだ。ところが、心がフォークに向いていなくても歌うことを求められ、「逃げたい」と思い続けてきた、のである。
それが変わったのが、昨年のあるコンサートだった。「信じあうよろこびを大切にしよう」という、歯が浮くような歌詞が恥ずかしくて避けてきた「今日の日はさようなら」を、コンサートのラストに歌ってみた。すると観客から大きな合唱が返ってきた。涙がこぼれて歌えなくなるほど感動した、という。「フォークを遠ざけようと思っていたけれど、喜んでくれるお客さんを見て、あらためてフォークならではの時代の共有感っていいなと思いました」。
そんな彼女の熱い“想い”が込められたのがニュー・アルバム『フォークソングの時代』である。収録曲は洋邦問わずフォークの名曲たち、「今日までそして明日から/よしだたくろう」「悲しくてやりきれない/ザ・フォーク・クルセダーズ」「あの素晴しい愛をもう一度/加藤和彦と北山修」「スカボロー・フェア/サイモン&ガーファンクル」「ドナ・ドナ/ジョーン・バエズ」などを中心に、「さらばジャマイカ/ハリー・ベラフォンテ」「見上げてごらん夜の星を/坂本九」など、彼女が今歌いたい曲が選ばれている。必然的に彼女の想いが強いメッセージとなっているのだ。
実は、フォークソングは音楽であって、既成の意味での音楽ではなかった。どういうことかと言うと、スタイルはあくまで音楽だが、それを超えてしまう“何か”があったということだ。換言すれば、音楽は己れの自己表現の一手段だったということである。
かつてフォークソングの時代は、歌とはそういうものだった。歌にアーティストの熱い想いそのものが反映され、聴き手である私たちは歌を聴いてアーティストの〈想い〉に共感を覚えたのだ。私たちは今、森山良子の〈想い〉にあの頃のように“共感”を覚えるのである。